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vol.

014

SEPTEMBER
2016

vol.014 / 対談

映画と音楽が教えてくれる、本当の身体

長岡亮介(音楽家)× 山戸結希(映画監督)

プレイヤーとしてのあなたの心意気を、スポーツのマインドで解き明かしたい。
そんな想いのもと前号から始まった“プレイヤーズトーク”。
第2回目となる今回は、新鋭の映画監督、山戸結希さんと、名プレイヤーとしての存在感を放つ長岡亮介さんが登場してくれました。

 

山戸:長岡さんは大きな舞台での活動と、個的な追求を鮮やかに横断している印象があって、本当に尊敬しています。

長岡:ありがとうございます。僕自身は単純に、音楽がありのままの形で「良い方が良いじゃん」っていう、そこで判断してどんな活動も自分がピンときたらやるようにしてきただけなんです。本当は、大きな場所では大きな振る舞いをしなきゃいけないはずなんですけど。

山戸:でもそれは大きな場所でも個的なスタンスをちゃんと持ち込んでるっていうことですよね。

長岡:それは、そうかもしれない。大きな場所になった途端、急に振る舞いが変わったら、それは恥ずかしいし苦いなあ。

山戸:これまで一度もぐらっときたことないですか? 例えば2階の誘惑に。

長岡:2階の誘惑……?

山戸:ステージから「2階のみんなー! 飛ばしていこうぜー!」みたいな(笑)。

長岡:ない(笑)。それこそ右も左も分からない頃から売れちゃって、大人たちにちやほやされていたら、そんな誘惑にもはまっていたのかもしれないけれど。

山戸:その、「2階ー!」がちょっと恥ずかしくて苦く感じる理由は、長岡さんという、個人の身体が出発点になった振る舞いではなくて、社会化された振る舞いをなぞることになるからっていうことはないでしょうか。10代の少女少年の頃から、それと同じように、社会の中で限定的な振る舞いを求められてきた苦しさがあるから。そしてそれが今の日本の社会の同調圧力に接続してくるというか。本来、個人にとっての本当の振る舞いとは、そんな社会化された振る舞いから自分の身体が引き剥がされたときにこそ生まれるんじゃないかなと思いますね。そのある種の瑞々しい瞬間を、たしかに、零さずに捉えていきたい、と。

長岡:監督の『溺れるナイフ』、観せてもらいました。全体的に人物をすごく引いて撮られていましたよね。とにかくそのフレーミングが新鮮だったんですけど、でも今の話を聞いていて、その理由がわかったような気がして。

山戸:とっても嬉しいです。オリンピックって、私たちに馴染みのない競技もあるじゃないですか。新鮮な競技。役者が演出家によって初めての自分を引き出されるときの感覚って、そんな馴染みのない、初めての競技をプレイすることと、恐らく似ているところがある気がしています。

長岡:それは初めての楽器に触ることとも近いかもしれない。最初は違和感ばかりが出てくるんだけど、それは言い換えれば瑞々しいと言えるし、新しい奏法が生まれたり、音色が出たり。そこから引き出される自分って楽器によって変わることがあるから。

山戸:面白いですね。楽器によって、自分が発掘されてしまうということですね。

長岡:あると思います。あとね、『溺れるナイフ』を観てもうひとつ思ったことが、映像に対して音楽が対等な関係を結んでいるように感じたことです。それは今まであまり味わったことのない感覚だった。(※)

※30曲を超える劇中音楽に加えて、大森靖子、tofubeats、吉幾三などの多彩なアーティストたちの曲を挿入歌に採用。また主題歌は、本作にキャストとしても参加している志磨遼平(ドレスコーズ)が、毛皮のマリーズの楽曲を再録音。

山戸:映画における映像と音楽の主従関係は、これからの時代、すごく面白いトピックだろうなって思っています。もしかすると主従が完全に逆転する瞬間というのも、今後あるかもしれません。そもそも音楽は、身体にかける呪いのような側面があると思っているので。私自身、高校生の頃、長岡さんが作詞作曲された「OSCA」が収録された東京事変のアルバム『娯楽』を聴きながら登校していて、今でも「OSCA」を暗唱できるんです。もはや身体に刷り込まれているから。それくらい、私の10代はずっと音楽が鳴っていた。その感覚がはっきりと自分の中に残っています。だから今、10代をテーマにした映画を撮ろうとすると、当時聴いていた音楽が、もしかして思い出よりも際立って迫り来るのではないかというのが、自分の身体の記憶としてしっかりあるんですよね。

長岡:記録よりも記憶ってね。よく言われることだけど、音楽はそういう面があると思います。

山戸:本当に、そうですね。例えばライブをやるとき、音楽家は舞台上で身体が晒されますよね。それはもしかしてアスリートのように。そういうとき、どこを目指そうとしますか?

長岡:そのときの頑張りどころって、実は難しい。スポーツのように、速ければいい、熱ければいいというわけでもないから。とはいえ実際にはアスリートの方たちは膨大なスキルで結果を出していると思うんだけど。なんて言えばいいのだろう、ちょっと射的をする感覚に近いのかもしれない。

山戸:楽器を使って的を射るわけですね。楽器に運動が伴えば、物理的に音は鳴りますよね。例えば、そのとき長岡さんの感情がオフだったとしても。そうではなくて、感情が楽器に乗り移った先に鳴る音という体験も、あるのでしょうか? これはずっと聞きたかったことです。

長岡:ありますよ。理想的ですよね。滅多にないけれど。

山戸:滅多にないということはいつもはどこか客観的で冷静だったり……。

長岡:基本的にずっと冷静なのかもしれないです。わーっ!って感情が高ぶることは、ほぼなくて。そもそも自分の感情よりも、お客さんの感情の方が大切で、例えば会場を包む空気を感じながら、「ああ、今いいな。今幸せだな」って思うことの方が多いですね。監督は現場でどうですか?

山戸:私は完全に裏方なので身体が晒されることはないんですが、だからといって現場で感情のスイッチを完全に切って冷静でいることがベストなのかというと、それもまたちょっと違うんです。役者さんに対して「このシーンはこうだから、こういう要素が足りない」と、論理的に言葉で共有していくことの方が多いのですが、一方で役者さんと一緒に、ときにそれ以上に、自分が泣いたり叫んだりせざるを得ない場面も、非常に稀ですが、たまに訪れます。もちろんそれは表舞台には乗らない運動ですけど、確かな身体の躍動がある。私の感情がオフでも役者さんは動いてくれますし、効率を重んじてそっちのスタイルを持っていたいのですが、でも、監督としての自分自身の個的な身体と役者さんが出会ってしか映らない瞬間もあって、その破壊力は、まだ言葉では説明できない力だなと思います。そういえば、長岡さんにとって、楽器は自分の身体の一部だと感じることはあるのでしょうか。

長岡:「調子いいぞ」って、身体の一部になったような気持ちになるときがときどきあるけれど、まあそんなにはないですね。きっとそれは普段から自分がいろんな楽器を使っていることもあるかもしれない。ひとつの楽器じゃないぶん、その楽器に合わせて弾くことの方が多くなるから。

山戸:なるほど、道理ですね。長岡さんにとっての楽器のような存在が、私にとっては役者さんだと思うと、すごく腑に落ちます。私も長岡さんのようにいろんな楽器に触りたい。それはもう世界中の楽器と。

長岡:その楽器を自分が鳴らすと。

山戸:『溺れるナイフ』の現場では、10代最後の時間を過ごす小松菜奈さんがそこにいて、私は小松さんの、最後の少女時代を自分が鳴らしたかったんだと思いますね。望月夏芽という役を通じて。菅田将暉さんの危うさも眩しさも、そうです。その楽器の命の中で、一番美しい記憶を鳴らしたい。自分の技術はまだ全然追いついていないとしても、気持ちとしてはいつもそうありたいですね。それがスクリーンに映る気がするので。